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2008年11月11日 (00:23)

探していたものを見つけるためには、その探していたものそのものを知っていなければならないのか

癒しという言葉に、なんとなく反発と憧憬を抱くプロレタリアートの皆さまこんばんは

わたくしはこころもからだも財布も寒々としております

どうも

無駄に苦悩@うつ病

です

さて、世に「自分探し」という言葉が出てからすでに久しくあります

わたしも生まれた時から自分を見失いっぱなしなような気がいたしますので、そろそろここらでちょっくら探してみようかと考えたりもしたものです

しかしながら、ふいとこの自分探しとやらが、いったい何者なのか、それをまず考えてしまったんですね

自分探し、もう使われ慣れてしまって、なんだか当たり前のような感じのする言葉ですが、この言葉、なかなか不可思議な要素がふくまれていましてですね

自分を探すとはつまり、どういうことなのか、そこから考える必要がありまして

まず自分といいますと、まあ一般的に考えて、現在自分を自分たらしめている自意識のことをさすのではないかと考察したんですね

自意識以外には自分を自分として認識できるものがないと仮定してです(つまり、なんでも知っている神やら仏やらが存在しないとして)

自意識を探すとなると、これはおかしなことで、自分を意識して自分たらしめている以上、自意識は間違いなくあるのであって、これ見失っているわけでなく、わざわざ苦労して探す必要もないのです

では、自分とは自意識ではないのかと考えると、これが自分というものを拡大解釈するに、自意識を含めて、自分を取り囲んでいる環境から与えられる影響、さらにその結果自分に対する自意識の変化を指すと考えると、まあ探すという言葉もまだ当てはまるのです

つまりどういうことかと申しますと、「今の自分は自分じゃない、本当の自分はもっと違う自分なはずだ」ということになりまして、今の自分は環境に妥協した自分であり、本来あるべき自分ではないということです

で、本来あるべきその自分というものを探すという言葉になって、やっと自分探しとなるわけですが、ここからが本題でして

そもそも本来あるべき自分でない自分が今の自分でありまして、では本来あるべき自分とは何かと聞かれると答えられない、だからこそ探すのだという話になる

しかしながら、本来あるべき自分がわかっていない状態で探すというのは、これ、いったい見つけることができるのかという不安がわきあがるのです

なんともうしますと、自分という言葉だけはわかっているし、イメージも持っている、だが本来あるべきとそこについた場合、イメージも何もあったものでなく、まったく未知の状態であるわけです、知っていれば探す必要がないわけですから

ではたとえば、宝石はいくつか見たことがあるが、ダイアは言葉だけ知っていて実物を見たことがない人が、さてダイアを探せるでしょうか

つまり、なんとなくそれらしいものはわかるとしても、それそのものを発見するのは、それを知っている必要があるのではないかという話なのです

そう考えると、本来あるべき自分を知らずに探して、仮に探し当てたところでそれと気づくのだろうかということになります

まあ、探し当ててもわかりませんよね、それがどんな状態かわからないのですから

しかしまあおそらく、本来あるべき自分を探すという定義自体が間違っているのかもしれませんね

なぜならば、そんなものはないからです

結局は自意識が決定する自分が自分であることに変わりはなく、そこにあるのはただ変化のみであり、その変化の過程において、「ここだ」と思える妥協点が自分のあるべき姿になるのでしょう

じゃあ、今の自分も結局自分であり、変化の過程を経て現時点というものがあるのだから、やはり探す必要もなく自分は自分じゃないかという話になります

しかしここでもまた自分探しをする自分もまた自分であり変化の過程であると考えるならば、自分探しとはつまり、自分という意識をはっきりもって、その到達点(妥協点)を探すこと、もしくは目指すことなのではないかと考えることもできるのです

さあ、もはや自分でも何が何やら意味不明になってきたので、ちょっと自分探しをしてきます


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